あさひ学園 - Asahi Gakuen文科省・外務省支援
ロサンゼルス補習授業校

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卒業生・同窓生便り

第四十六回 高木 潤 さん

高木潤さん略歴
1988年3月バージル校・オレンジ校・サンタモニカ校高等部卒業
 (現地校)Sunny Hills High School, Fullerton, CA
1992年国際基督教大学教養学部 卒業
卒業後日本で外資系企業勤務
 アメリカで日本企業の米国法人での勤務
2003年よりSquare Enix Inc. 勤務 現在に至る

我は「あさひ学園ファミリー」

数年間の日本生活を挟み、小学部から高等部までをあさひ学園で学ばれ、ご兄弟・奥様もあさひ学園の卒業生、現在は在籍生の保護者でもあり、まさに「あさひ学園ファミリー」である高木さんにインタビューさせていただきました。

あさひ学園の勉強について、どんなことが印象に残っていますか?

バージル校に小学部で入学しました。その後父親の仕事で日本に戻りましたが、再び渡米、オレンジ校の中学部、サンタモニカ校の高等部で学びました。当時は、バス通学でした。
勉強で印象に残っているのは、高校の「倫理」の授業です。毎週、その日のテーマが決まっていました。先生のテーマに対する考察に沿っての授業でしたが、とにかくプリントに書いてある事が素晴らしかったことを覚えています。テーマは、例えば「死」についてなどです。当時まだまだケツが青いながらも哲学とかに興味がありましたし、倫理に関する考察等は好きな内容でした。卒業してからも、その授業でもらったプリントはしばらく大事に取ってありました。
高校3年生の時に、卒論も頑張って書きました。課題は自由で、私は宮澤賢治の生涯といくつかの詩について書きました。最低枚数を余裕で上回る大作で、提出期限ギリギリまで、手が痛くなるまで教室で原稿用紙に書き続けたのが良い思い出です。どこかに保存されているかも解りませんが、できることならもう一度読み返してみたいです。弁論大会は、当時もありました。私は3年の時に参加しましたが、その時に素晴らしく上手な下級生がいたことを記憶しています。
嫌だったことといわれれば、宿題が多かったことでしょうか。どうやってこなしていたのか、今となっては思い出せませんが、時々木曜日や金曜日の夜になってまとめてやっていた記憶はあります。毎週土曜日にあさひ学園に行くのも、中学1~2年は反抗期も相まって、親に文句を言いながら通っていましたが、高校生になったらそれほど文句も言わなかったように記憶しています。

高等部の頃について、どんな思い出がありますか?

高校2年生の時の学級写真

<高校2年生の時の学級写真>

当時、高校の部活で水泳と水球をやっていました。その試合が土曜日に入ることが多かったので、葛藤というとちょっと大袈裟ですが、色々な意味でコンフリクトは幾度か経験しました。「水泳をやめて、あさひ学園に行く」ことを告げると、その仲間から「勉強なら後になってもできるけど、水泳(等のスポーツ)は(若いうちの)今しか出来ないんだぞ」と言われましたが、あまり体育系のノリが好きではなかったので、あさひ学園に通うことを選択しました。
辛かったのは、仲良くしていた友達が徐々にやめていったことです。高校にもなると現地校との兼ね合いもあって、(学年的に現地校では自分より一年上だった人もいいましたし)小学校から一緒に勉強してきたのに、退学者が増え、寂しくなる一方でした。高等部の1年生の時は4クラスあったのですが、3年生の後期には1クラスだけになっていました。
そんな中で、私が高校を卒業するまでいたのは、「ここまで来たんだから」という意地があったようにも思います。また、高校も2年目くらいになると、あさひ学園での居心地の良さみたいなモノに気付きました。
考えてみたら、同級生の多くは自分と同じ境遇なんです。現地校でも友達はいましたが、どんなに英語ができても、100%自分自身でいられるワケではないので、いつまで経っても居心地が良くない。それに対して、あさひ学園の友人は日本人としてのアイデンティティーを持ちながら、皆同じような悩みを抱えている。それに気づくと、ちょっと気が楽になった部分がありました。「あ、オレの居場所はココなんだな」という思いでした。

あさひ学園での友達との関わりは、どんなでしたか?

当時の高校は、サンタモニカ校にしかありませんでした。同級生の大半は、トーランス在住者でした。その中にヘビメタが好きなグループがいて、彼らはギターを弾いたりバンドをやったりして、文化祭では、現在も使用されている Daniel’s Den でドカドカやっていました。私もギターを弾いていたので、話題的にはオレンジ校の同級生よりもそのグループと気があったというか、ある種の憧れみたいなものがあったんですけど、彼らはお互いに住まいが近いので週日も一緒につるんでいられるのに対して、私は週一回しか会えなかった。会えると嬉しいと同時に、一緒にバンドをやるまでの仲にはなれなくて、ちょっと悔しかった思いがありました。
時間が前後してしまいますが、中学部3年の時に、同級生のひとりが突然亡くなるという強烈に印象に残る出来事を経験しました。身近な人の死を感じ、そんな体験を一緒にしたからか、その時のクラスメイトとは不思議な連帯感があり、今だに連絡をとっている友人もいます。

日本の大学で学ばれたそうですが、いかがでしたか?

兄もアメリカの高校を卒業した後日本の大学へ行ったので、「大学は日本へ行く」ということに対して抵抗どころか、疑問もありませんでした。と同時に、「早く親元から離れたい」という気持ちも大きかったのだと思います。
ICU(国際基督教大学)で、政治思想について学びました。ICUは海外からの生徒の受け入れの盛んな学校なので、違和感はゼロに等しく、あさひ学園と同じような境遇の人間が多く集まっている場でした。ですから、むしろ、新たな「自分の居場所」を見つけられたような思いでした。高校の頃はあまりできなかったバンドのサークル活動をいっぱいやって、自己実現の場でした。卒業して社会人になってからの方が、カルチャーショックは大きかったように思います。

日本の仕事や現在の仕事について、聞かせください。

Rachael-Leigh-Cook

<作品の声優として、女優の
Rachael Leigh Cookさんと>

大学卒業後、バイリンガルの能力を生かすつもりで外資系の会社に勤めましたが、日本企業と変わりない、或いはそれ以上の「硬さ」を感じました。体調が悪化したことも重なり、日本での社会人生活は楽ではありませんでした。
そんな中でも、長野オリンピックのITシステムPCネットワークの構築とメンテナンスを任され、本番時には、ボブスレーの競技結果の責任者を務めました。これもヨーロッパから来ていたボブスレー連盟の重鎮と英語で対等に対応できることが買われたことだったと思います。多くの外国人や地元のボランティアと関わる重みのある仕事で、責任のある・やりがいのある仕事でした。その後、体調を整えるにあたって、両親の元、アメリカに帰ってきました。
現在は、日本のゲーム会社の現地法人に勤務しています。2003年に入社して、ずっとローカライズ(ゲーム本体の和文英訳)に携わっていました。昨年からは別の部署に移りましたが、翻訳は続けています。ローカライズというのはテキストの翻訳業務だけに留まらず、英語音声の収録のスタジオにも立ちあいます。これは配属が変わった今でも必要に応じて対応しております。声優や、たまに有名人とも関わる仕事です。
自分の生業は翻訳にしたいと考えています。以前にも、別の会社で翻訳を担当していました。某日系企業のオートバイ部門だったのですが、バイクの事など何も解りませんでした。ゲームの事も入社当時は何も知らないに等しかったのですが、それでも会社・部署の運営の中で無くてはならない存在でいられるのは、「専門性が違っても、バイリンガル・バイカルチュラルなニーズに応える事が出来るから」という密かな自信があります。現在属している部署には、翻訳も通訳もバリバリにこなす上手な若者たちがいて、気付かない間にこんなに「デキル」バイリンガルが増えているんだなと感心すると同時に、私自身の売りだったスキルが珍しいものではなくなっていることを感じています。

あさひ学園に対する思いや今後の関わりについて、どう考えていますか?

妻や私は、純日本人でも純アメリカ人でもなく、日英(米)バイリンガル・バイカルチュラルである事自体が自分達のアイデンティティーであるという認識を持っています。それは、間違いなくあさひ学園が私達の人格形成の一端を担って培われたものです。
娘は<Japanese Immersion Program >のある学校に通っていますが、日本の学校と比べるとペースが遅いので、あさひ学園の勉強が日本語力の補強になればと思っています。自分達だけで充分な日本語力を娘に身につけさせる自信がありませんでしたし、人格形成という意味でも、自分達と同じようなアイデンティティーを築いて欲しいとあさひ学園に通わせることにしました。
 今住んでいる所がサンタモニカ校の近くという偶然も重なり、30年前に自分が通ったあさひ学園のキャンパスに娘が通う事になった事に、感慨を通り越して、運命的なものを感じます。
「自分達の時代がそうだったから」とかではなく、あくまで「現在のニーズに沿って」、あさひ学園には娘の人格形成の一端も担って欲しいと思っています。
昨年は学級幹事を務め、通常よりも子供達と多く接する機会となりました。そして、子供達が学ぶ場として、如何にベストの環境を整えるべきか、どういう所に改善の余地があるか等を考える機会にもなりました。今後はOBとして、そして保護者として、少しでも改善の力になれたらと思っています。

最後に、後輩たちへのメッセージをお願いします。

みなさん、何か「これだけは絶対誰にも負けない自信がある」というワザ・知識・専門領域を追求してください。学校の科目でも、或いは学校で勉強しない事でも良いのです。学生の頃は、それが途中でコロコロ変わっても良いのです。学生時代は、色々やってみるチャンスです。でも、それを将来的にどうやってバイリンガルである事に結びつけて行くか、という事も常に考えていて欲しいです。あさひ学園では日本語<を> 、そして色々な科目を日本語<で>勉強しますが、究極的な目的は、将来的に日本語と英語を両方使えるような活躍が出来るようになる事だと思います。バイリンガルであることで、様々な門戸が開けます。
「バイリンガルなだけでなく、バイカルチュラルであれ」私が父から言われた言葉です。カルチャー=文化というと、いかにも装飾的なジャパネスクなモノを想像しがちですが、それよりも日本人としての物の考え方、感じ方等が解るように感性を研ぎ続ける事も大事かと思います。
そして最後に、勉強も大事ですが、あさひ学園でしか会えない友達も大事にしてください。

今日は、いろいろと聞かせくださりありがとうございました。これからもお嬢さんを介して、あさひ学園といろいろと関わりを持っていただくことになると思います。より魅力的なあさひ学園となるよう、保護者としての立場からもご協力をお願いします。

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