あさひ学園 - Asahi Gakuen文科省・外務省支援
ロサンゼルス補習授業校

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卒業生・同窓生便り

第十回 永野 力さん

卒業生・同窓生便りの第十回は会計士の永野力(ちから)さんからです。あさひには小学3年生から高等部卒業まで約10年間通われ、宿題の多いあさひの勉強と、現地校との勉強の両立に悩んだようです。そうした状況の中で、勉強を続けられたのは友人たちであったようで、その影響や日本人として生きていきたいというご自身の考えもあり、大学は日本の慶応大学(経済学部)に進学されました。大学卒業後は経団連に就職、バイリンガルの能力を活用しながら、ビジネス界や官界との政策調整の仕事に従事しました。しかし、専門性を持ったプロ職人への憧れから会計士となり、2年前に約20年ぶりにロスに戻り、お父さんの会計事務所に勤務されています。永野さんは現在二人のお子さんがあさひに通われており、ご自身があさひに通われた当時と同じく、あさひの勉強を通じてお子さん達が日本語や日本文化を身につけていくことの大切さを、今は保護者として感じられています。

かつては生徒、今は保護者

あさひ学園には二世代にわたってお世話になっております。 私自身は、小学校3年生(1976年)から高等部卒業(1986年)までの約10年間在籍しておりました。その後の帰国、大学入学、就職、結婚、子供の誕生という東京での長い生活を経て、最近約20年ぶりにこのロスの地に戻ってまいりました。そして今39歳でありますが、自分の長女(小5年)および長男(幼稚部)をあさひ学園に通わさせていただいております。二代を通してあさひ学園に関わってきて者としては、あさひ学園への想いは特別であり、この原稿の執筆にあたり非常に感慨深いものがございます。

1. 会計士としての自分

私は現在、米国公認会計士(CPA)として父の創業したNagano & Morita CPAsに勤めております。ロス、トーランス、アーバイン、サンディエゴ、シリコンバレー、東京にそれぞれ事務所を構えております。

ご多分に漏れず、私は大学(慶応大学)を卒業してからは、世界を跨るビジネスマンになりたいと考えておりました。経済学部出身ということもあり、経団連という職場に入れさせてもらいました。そこでは日本中枢の経済界、永田町および霞ヶ関との間の政策調整の仕事を担い、大所高所から日本国および世界を語れる大変有意義な仕事場でありました。当時から、わたしを含む日本語と英語を操れるバイリンガルは、国内でも国際社会でも通用できるということで、大変もてはやされました。ところが、就職してから約10年間、大きな組織の中をグルグル回されるゼネラリストとしての自分に寂しさを感じるとともに、バイリンガルだけでなく高い専門性を持ったプロ職人への憧れも醸成してまいりました。企業の財務内容を監査し、公に経営状態を報告する会計士の仕事内容および社会的役割に、その頃から興味を抱くようになりました。さらに東京でのハイペースの生活に少し疲れてくるとともに、幼少年期を過ごしたロスの青い空とカラッとした気候を、昔の恋人のように懐かしむようになりました。

結果としては、会計士を目指し、父と同じ事務所に入ることになりました。現在は、日本から米国への進出企業を中心に米国会計・税務のお手伝いをさせていただいております。顧客に対しては日本語で話し、一方米国税務当局とは英語を駆使するという、まさにあさひ学園での学びがフルに活かされているという結果となっており、大変嬉しく感じると同時に感謝しております。

2.あさひ学園と私

あさひ学園の運営目的は、今も昔も変わっていないと思います。それは、日本から来た家庭の子弟を、日本に帰国させても無事に日本の学校へ順応できるよう、学業面で補佐・支援することであると理解しております。つまり、「日本へ帰国する」子弟への教育というところに焦点が絞られております。

実は、私は最初は銀行員の駐在員家族としてロスに来ました。しかし、途中で父が銀行員を辞めて現地で会計士として独立開業してから、その子供である私は永住組のステータスへ切り替わりました。ですから、あさひ学園には、高等部を卒業させていただくまで約10年間おりましたが、これほど長く在籍しているのは当時は珍しい存在だったと思います。

今でも憶えているのは、あさひ学園の宿題量は猛烈に多く、現地校との勉強を両立させることは大変難しかったことです。毎週金曜日までに宿題を溜め込んでは、泣きながら両親から直接指導を受けました。私はあさひでは劣等生でした。日本から来たばかりの生徒達は、勉強がとても良く出来、羨ましく思いました。いつの間にか、あさひ学園の勉強は辛いものとなりました。土曜日前の金曜日は憂鬱になりました。しかし、勉強が辛くてもあさひ学園に通い続けたのは、良好な友人関係でした。

とても良い友人に恵まれて、日本のマンガの交換、日本のアニメやゲームの話などに興じて週一回は日本の娯楽文化に触れ楽しみました。結局のところ、親はいくらがんばって子供に日本語の教育をしたとしても、子供は成長するにつれて友人関係の方の影響が大きくなってきます。私の場合は、あさひ学園での友人関係が、私と日本との関係を切断させずに続けさせる原動力となりました。

3. アメリカの大学か日本の大学か

特に、あさひ学園を高等部まで続けたことは本当に幸いなことでした。あさひでの生徒の通常のパターンというのは、高校前までに日本に帰国するか、あるいは現地校重視のために辞めるかのどちらかでした。高等部まで残る者は、本当に一握りでした。しかし、そうして残った生徒間には、強い信頼感と団結心があり、私にとって高等部時代はあさひ学園の中でも最も楽しい期間でありました。大学進学に際しては、帰国子女組と米国大学組と丁度半々になったと思います。その多くは、University of Californiaレベルなどの有名大学の入学許可を得つつ、日本の有名大学を帰国子女枠で受験しました。

私は当時UC Berkeleyに進学して物理学を学びたいと考えておりました。しかし、「このままではアメリカ人になってしまう」という根拠のない不安感と、親の意思を尊重すべきという長男としての責任感から、日本に帰国いたしました。その決断が正しいものであったかどうかは分かりません。ただし、あの時点で帰国していなければ、日本人としての自覚は今ほどなければ、女房との出会いも3人の子供の誕生もなかったわけです。ですから、大学進学は私の人生にとって決定的な影響を与えたことは、間違いない事実だと思っております。

4.子供をあさひ学園へ

約2年前に家族とともにロスに参りました。そして、晴れて子供達をわが母校、あさひ学園に入学させることができました。かつて生徒であった私は、今度は保護者の立場になり、毎週あさひ学園に通っております。幸いなことに、子供達はあさひ学園に行くことを本当に楽しみにしております。現在のあさひは、私の頃と比べて、生徒数も教職員数も増え、校内における父兄のボランティアも目立ち、より組織的に運営されているように思われ大変結構なことだと思います。

最後に、グローバル化・国際化という古臭い用語は随分世間で言われてきましたが、こうした時代の中でこそ、正しい日本語および日本人としての礼儀・精神を我々の子孫に伝授することは、大変意義深いことだと理解しております。そのためにも、あさひ学園の昔から変わらぬ役割は重要であると信じており、今後のさらなる飛躍を期待して止みません。

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