あさひ学園 - Asahi Gakuen文科省・外務省支援
ロサンゼルス補習授業校

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卒業生・同窓生便り

第二回 北神 圭朗さん

卒業生・同窓生便りの第二回は、現在国会議員で、民主党副幹事長の北神 圭朗さんからです。あさひには、小学部から高等部まで12年間通われ、小学、中学部時代は日本語と英語の両方を学んでいくことに苦痛と悩みの日々を過ごしたようです。しかし、高等部の授業で日本の文化や文学に強い興味を持ち、そのことが、日本への帰国の決意となりました。京都大学(学部は法学部)へ進学した後、大学2年頃、政治に関与していきたいという気持ちが強くなり、卒業後は国家予算を通じて行政の勉強が出来る財務省(旧大蔵省)に就職、約10年間の勤務をしました。そして、平成17年の衆議院選挙にて初当選をし、自らの志を果たすことになりました。以下は、北神さんからあさひの在校生への世界に勇躍して欲しいとの力強いメッセージです。

私の志を育ててくれたあさひ学園へ

あさひ学園在校生の皆さん、はじめまして。北神圭朗と申します。

私は、昨年の衆議員選挙で初当選をさせていただき、現在、国会議員として活動をしています。国会史上おそらく例がないと思いますが、私はアメリカで通算20年間暮らしています。今39歳ですから、一生のうち半分以上米国で生活をしたことになります。

もともと父の仕事の関係で、生後9ヶ月の時に、ロスアンゼルスに連れられました。両親は「我々は移民として来たのではない。あくまで日本人なので、いずれ日本に帰る。お前もいつでも帰国できるように、きちっと日本語の勉強をするように」とよく言われました。そうしたことから、あさひ学園に有無を言わさず通わされました。小学校1年生から高校を卒業するまで、12年間通いきりました。

子供心ながら、これは大変苦痛でした。しかし、今となれば、あさひ学園の先生方や同窓生、そして両親にも深く感謝をしています。その理由をこれから述べたいと思いますが、私は大体、食事でも不得手なものを最初に、おいしいものを最後にとっておく性格です。まずは、苦痛の話から入って、徐々にあさひ学園で得られた果実について触れていきます。

今はどうか知りませんが、当時のあさひ学園は、エリートサラリーマンの子供たちが2,3年通ってから、帰国するパターンが多かったのです。ですから、周りは日本での教育もしっかり身につけているのみならず、もともと優秀な子が大半でした。

他方、私の場合、赤子の時分から米国にいるわけですから、育った環境が異なっています。学力どころか、国語能力からして話にならない訳です。これは勉学において甚だ困りました。

「なぜ、この人たちはこんなに賢いのだろうか」、「現地校の友達は、土曜日の朝は『トムとジェリー』を観て、午後はリトルリーグで野球をやっているのに…」、「なぜ、俺は、ここにいるのか」。  永遠のように長く感じる授業中、こういう他愛もない、しかしながら子供にとっては切実なる疑問が去来するのです。

どうしようもない劣等生であり、他の生徒たちからも相手にすべきでない異人種と見られるので、普通にしていたら学校生活が楽しい筈がありません。いつしか私と同様の境遇の友達や、少し変わっている友達とつるむようになります。

この仲間がいたからこそ、最後まで通学ができました。昼休みはこの仲間でバスケットボールや野球をし、授業の苦痛と屈辱から解放される恍惚の一瞬を共有しました。また、学校が終わってから、晩にお互いの家に泊まりに行くこともよくありました。小学校5年生くらいからは、ロック音楽にのめりこむようになり、お互い自分たちの好きなテープを交換するようになりました。

孤立の意識を共有しつつ、強固な絆に基づく友情が鍛えられたのです。何十年経つ今でも、その友情が持続しています。これはあさひ学園で得た宝の一つであります。

高校生くらいになると、さすがに自分も、また、周りの生徒たちの意識も変わります。私も、文学や哲学の本を読み漁るようになり、日本の豊饒な歴史や伝統に多少興味をもつようになりました。幸い、あさひ学園に立派な先生がいました。私のような中途半端な者にも、忍耐強く、百人一首などを通じて和歌の美しさを教えてもらったり、小林秀雄の脂汗が出るような思考の面白さも教えてもらいました。今から考えると、ほとんど理解できていませんでしたが、学ぶことは恋愛と同様とにかく解らなくても熱烈に没頭することが肝腎です。いずれにせよ「日本」を身近に感じる貴重な体験でした。

一方、他の「普通の生徒」たちとの交流も深まり、はじめてそういう子達に受け入れられる経験もしました。

こうした高校時代の環境から、私も自分のルーツを確認したいという思いに駆られるようになりました。両親も大学は日本で行け、という方針でしたので、両者合意の下で、帰国することになりました。日本語が覚束ないため、夏休みを利用して、芥川龍之介に関する本を丸一冊朗読するとともに書き写し、知らない言葉や漢字は徹底的に辞書で調べました。短期決戦でしたが、何とか京都大学に合格することができました。

大学受験については皆様も悩まれることでしょうが、学園時代はあまり意識せずに遊びにも、スポーツにも、読書にもたくさん時間を割きました。顧みれば、この時代に、自分の基本的な器が形成されたような気がします。

大学は、本当は哲学を勉強したかったのですが、父から「日本の大学は一端入学すればそれほど厳しくないから、いくらでも好きなことを勉強できる。むしろ、社会人になっても幅広く応用が利く法学部が良かろう」ということで、あまり考えずに大学は法学部を選びました。ところが、実際は、法律にはあまり関心を持ちませんでした。むしろ、自分の精神を形成する大きな要因である日本文化を探求することに多くの時間を費やしました。

文化と言っても、神社仏閣とか、能楽とか、いわゆる文化遺産だけではなく、それらを含めて、私たちの生活のあり方すべてにかかわるものです。私たちのものの見方、感じ方、考え方、やる事なす事、判断などを左右するものすべてが文化です。そして、これが歪められたり、欠落したりしたら、人の心は空っぽになり、物質的な快楽だけを求めるようになり、したがって社会の安定も崩れていきます。

ところが、帰国してみたら、多くの日本人は、自分たちの文化を放棄したり、忘れてしまっているのではないか、と思うようになりました。戦後の政治のあり方が大きく影響していることはいうまでもありません。逆説的に、それは経済成長の達成感の末に、日本人が内向きになったことが大きな原因だとも思いました。日露戦争の後もそうですが、日本人は少し成功すると、すぐ有頂天になり、外に対して緊張感を失ってしまう性癖があるようです。バブル時代も「もはやアメリカに学ぶべきものはない」という発言をよく聞きました。そして、外に目を向けなれば、自分が何者であるか、という視点も見失います。

私は、もう一度日本人が、世界に目を向けていく気概と志を取り戻さなければならないと思いました。そうすれば、それに伴って、己の文化の伝統を回復する必要性に迫られるのではないか、と考えました。この考えは、そのまま自分のルーツを探求する作業と重なり合いました。

そういうことから、いつの間にか大学の2年目くらいから、自分も政治に貢献したいという志を持つようになりました。といっても、大学を卒業してすぐ政界に入るわけには行きません。そこで、私は国家予算を通じて幅広く行政を勉強できると思って、旧大蔵省に入りました。大蔵省では、私のように海外生活の長い人は空前のことで、人事側にもとまどいもあったようですが、10年間ほど大変充実した仕事をさせていただきました。

こうした経緯で、今、政治をやっていることにつながるわけです。これもアメリカに住んで外から日本を見つめる視点を養うことができたことが大きいのでしょう。当時は苦痛でしたが、あさひ学園に最後まで通うことで、自分も世界が広がり、日本でこうした仕事をできるようになりました。あさひ学園に通っていなければ、自分の世界は基本的にアメリカに限られてしまったのではないでしょうか。

アラビアのローレンスが、「2つの文化を通して世界を視ると気が狂(ふ)れる」旨自伝に書いています。皆さんも恐らく現地の学校との間で苦労されていると思います。私の極めて個人的な体験がどこまで皆さんの参考になるのか分かりませんが、気が狂(ふ)れない程度で、現地での生活とあさひ学園での生活を通じて、日米を軸にさらに広い世界に勇躍して欲しいものです。

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