「叱る」について考える
先日、教室に入ったら「〇〇さん、あなたが△△さんにしたことを、もし自分がされたらどのような気持ちになりますか?」と、いつもは穏やかなA先生が強い口調で、注意をする場面を目にしました。叱られている子どもの横には、下を向いて悲しそうにしているクラスメイトがいました。注意を受けた本人も、いつもとは違う先生の態度に、少し驚いた様子でしたが、事の重大さを感じたのか神妙な顔つきになっていきました。
教師が児童生徒と信頼関係を築くためには、「適切なタイミングで適切な言葉かけ」をする必要があります。苦しい中、自分なりに頑張っているときに「よくやっているね」と一言声をかけられただけでも、自分が認められたと感じ、その努力を認めてくれた先生に対し、好意を感じます。また、「自分もこれぐらいなら・・・」といけないと感じながらもついやってしまい、周りも「ちょっとまずいよ~」と思う場面で、「それっていいのか?」と注意をすることで、「先生は、私たちと本気で向き合ってくれている」という思いにつながります。
今回、私が遭遇した場面は後者になりますが、最近は先生が「叱る」というのが、難しくなっています。これは、学校だけでなく、社会全体の流れでもあります。メディアで「Z世代は叱られることに慣れていない」「パワハラと訴えられる可能性があるから部下を𠮟責できない」というテーマが取り上げられるほど、「叱る」の意味が昭和や平成初期とは大きく変わってきています。日本とアメリカのプロ野球界で輝かしい実績を残したイチロー氏が、訪問した高校で発言した「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって」というコメントから、しごきが当たり前だった野球の世界も、厳しい指導から転換しているのが分かります。 社会の空気が変化しており、今の子どもたちは、学校では先生から、社会に出てからも先輩や上司から叱られる機会が、保護者の皆さんが子どもだった頃よりも圧倒的に少なくなっています。しかし、それは「叱るのは悪いことだから、叱られた自分は悪くない」と捉えてしまい、反省することもなく注意をした側に反発するような子に育つ可能性も秘めています。感情に任せて怒るのはプラスになりませんが、愛情を持った「叱責」「説諭」は子どものためになることもあります。 例えば、大怪我や命に関わるような危険な行動をしている場面では、叱らなければ危険性を理解できません。そうした経験を通して、子どもの方も「これは危険」と察知し、反省するようになります。また、改善すべきことを指摘しないことにより、「このままの自分で良い」と考え、自分を律して努力する機会を失うことにもなります。 これは子どもにとっては不幸なことです。大切なのは、何がいけなかったのか、その理由を丁寧に伝えること、そして必要に応じて具体的な改善策を一緒に考えることです。そして、子どもに変化や努力が見られたときには、その姿をしっかり認め、言葉にして伝えていくことが、さらなる成長につながります。